皆さんこんにちは。
暑い日が続きますね。
綱島では梅雨が明け、暑くなる頃に
名産の桃の収穫が始まります。
そこで本日は東横線 綱島の桃の歴史についてお話したいと思います。
鶴見川の本流と鶴見川に注ぎこむ早淵川と矢上川に囲まれる綱島地域。
昔は激しい雨が降ると、それらの川がしばしば洪水を起こし、
そのたびに農作物は大きな被害を受けていたそうです。
お住まいの方たちはこの様な水害により
苦しい生活を強いられていたそうです。
明治30年ころ、川崎から綱島へ来た行商人が
水害に悩む農民たちの状況を聞き、水害に強く
この地域の砂質の土壌に適した作物として
桃の栽培を勧めて栽培が始まったようです。
当時の桃といえば硬い桃が主流だった様ですが
果肉のやわらかい西洋桃が好まれるようになって来ていた様で
研究を重ねていった結果新たな品種の桃の栽培に成功。
それは病害 に強く、且つ六月中旬より収穫でき
少面積で米の3倍強の収益をあげることができる。
新しい桃は「日月桃」と名付けられました。
綱島の桃は市場でも味香りがよいという評判になり
綱島のブランド品として定着していきました。
明治43年には綱島果樹園芸組合が創設され
桃作り熱はますます盛んになり、まさに全村挙げての桃栽培となっていきました。
その後、開業した今の東急電鉄には桃を運ぶための電車まで作られ
「綱島の桃」は全国に出荷されるようになり、「東の神奈川、西の岡山」と言われるほどになりました。
それ以来、綱島の桃は、数々の品評会で多くの賞を独占しました。
綱島の桃が品質日本一と評されるにしたがって綱島の桃の人気は不動のものとなり
昭和6年頃には、24万箱、約288万個の桃を生産・出荷するまでに!
この頃、神奈川県の桃生産高が岡山を抜いて日本一となりました。
そんな中、昭和13年、未曾有の豪雨により鶴見川は大洪水を起きてしまいました。
さらに3年後の16年にも再び大きな洪水が起こりました。
元々水害に強かった桃も、この二つの洪水では
大 きな打撃を受け多くの農家が桃の栽培を断念するようになり
やがて太平洋戦争がはじまるに至っては、食料増産の名のもと
「嗜好品の桃より米や麦を作 れ」という軍の命令もあり
桃の栽培は次第に減少していってしまいます。
その後昭和20年の終戦の後、再び桃の栽培が始めらました。
果樹園芸組合も復活し、地場産業として桃を復活させようという機運も盛り上がってきました。
しかし、戦後日本の 工業化、都市化の流れが押し進められていく中で
農村だったこの地域に、工場が進出し始めていき
非農業人口の増加とともに宅地需要が増大していきました。
また、綱島温泉の盛隆ととも に温泉旅館が次々開業をしていきました。
こうした中で、農業をやめ土地を売る農家が次々現れ桃農家も減少していき
昭和40年代になり、とうとう桃栽培の創始家である池谷家の畑を除いて桃農家はすべてなくなりました。
東横線沿線の綱島地域の歴史を語る上で、欠かせない桃の話。
「つなしま賃貸マーケット」では綱島の良き部分を皆様にお伝えしていければと思っております。
そしてこの街の発展に少しでも貢献出来ればと思います。
今年もとても良い桃が出来たようです。
綱島の桃に関する最新情報はこちらをご覧ください。
少しですが桃の写真を添付しておりますのでご覧下さい。


